2017年01月24日

マンガを描き続ける



若い頃は、「マンガを描きたい!」「本に掲載してもらってみんなに読んでほしい!」という大きな欲求があった。
だから認めてもらうために、何作も何作も、何の報酬もなく描いては投稿し、描いては持ち込みを続けた。
全然苦ではなかった。
これからの長い人生に、可能性を感じる事が出来たからだと思う。
どれだけの時間と労力を費やしただろう。
思い起こすだけで目がくらむ。

マンガ家として活動できるようになって、原稿で収入を得られるようになったのは幸せな事。
マンガ家をプロとして続けていくと、「マンガを描くこと」=「収入を得ること」という事が当たり前になってくる。

そういう流れが出来てしまうと、「収入が発生しないマンガを描く」のがツラく感じられてくる。

仕事が無くなり、持ち込みをしても道が開てこない時期に突入すると、歳を取った分がんばれる量にも限度が出てくる。
昔は平気で描けていた「収入にならない原稿」を描く事が、こんなに辛いものかと思った時に、マンガを描き続けることの限界を感じた。

お世話になっている編集さんにお会いした時、こんなことを言われた。
「かとうさんにマンガを依頼する編集部はもうないと思います」
かなり冷たい言い方だが、悪気があって言われたのではない。
事実を素直に伝えられただけ。
15年間連載経験のあるマンガ家ではあるけれど、大ヒット作を生み出したわけでもなく、ネームバリューもない。
ましてや高齢(40歳でデビュー)となれば、扱いも面倒。
次々にイキのいい才能のある新人が出てきているのだから、よほどのヒットメーカーや巨匠でない限り出番を失っていくのがマンガ界。
そもそも厳しい世界だと覚悟は出来ていたはずだが、いざとなると心が寒くなる。

その編集さんが、続いてこんな事も言ってくれた。
「かとうさんのスゴイところは、依頼もされないのにマンガを描いて売り込んでくる事」
(ちなみにそのマンガとは「マンガのマンガ」のこと)
皮肉のようにも聞こえるけど、本気のようにも聞こえた。

依頼がなくても、必要とされるマンガを描けばいい。
例え編集部に売り込めなくても、自分でなんとか出来る環境が整ったのが今という時代。
まだまだ頑張りようはあるのかも…という気になっている今日この頃です。



posted by かとう at 05:44| Comment(0) | myマンガ道

2016年11月23日

「なんとしてもマンガ家になりたい!」と思った記憶がない



子供の頃から、睡眠時間をタップリ取るタイプでした。
中学校時代まで毎日10時間は眠っていたし、高校に入っても毎日8時間の睡眠時間はキープしていました。
そんな生活を続けていたので、「短い睡眠時間」というのは生活していく上で耐えられない…という身体になっている自覚がありました。

なんでこんな話を始めたのかというと、ある事に思い当たったからです。
私は「なにがなんでもマンガ家になりたい!」と思ったことがないのですが、その理由がこれだったのではないのか…ということ。

私が本格的にマンガを描き始めたのは、高校生の頃です。
とにかく描くことが楽しい。
マンガを描く事ほど世の中に楽しい事はない!と思っていました。

本に載せてたくさんの人に見せたいという思いは、もちろんありました。
そういう意味では「マンガ家になりたい!」という思いはあったのです。

ところが、マンガ家という仕事は「締め切りに追われ徹夜の連続」という情報が私に刷り込まれていた為、「マンガ家の生活は自分には無理!」という確信がありました。

「マンガを描いて収入を得て生活出来る」のは夢のようだけれど、「睡眠時間が確保出来ないような仕事は耐えられない」だったわけです。

当時の「売れっ子(死語か?)」の先生方は、月産枚数と徹夜日数を自慢しているような時代でした。
「スゴイなぁ…」と驚嘆はするものの、「そんな地獄は見たくねぇ」という思いの方が強かったのだと思います。
私の中に「なんとしてでも」マンガ家になりたいという記憶がないのは、おそらくコレだと思います。

幸いな事に、コロコロコミックでマンガ家の先生の仲間入りする事が出来ましたが、仕事として成立したのは「売れっ子作家にならず(なれず)、ペースが月刊誌だったから」こそだと思います。

一度も徹夜した事がありません。
楽しくマンガを描いて、毎月収入を得られる。
まるで楽園のようです。

人は落ち着く所に落ち着くモノなのだ…と思った次第です。

ちなみに「チョコボのマンガ」が人気が出て、別冊掲載の依頼があった時、その月の月産ページ数倍になってしまう為、「ページ数を減らして欲しい」と編集部に懇願して、あきれられた事があります。
「ページ数を増やせと言う先生は多いけど、減らせというのは初めて」だったそうです。

体調が万全の状態でないとマンガは描けないタイプなので、私にはとっても重要な事だったのでした。


posted by かとう at 05:20| Comment(0) | myマンガ道

2016年09月26日

添削という仕事


ストーリーマンガの添削って、「感想を述べる」ことではない。
「どこ」が「どう具合が悪い」のかを「具体的に指摘」し、「どう直したらいいのか」を「具体的に示す」事。

例えば、「分かりにくい描き方なので、もっと分かりやすい描き方を!」とか添削されても、余りに抽象的すぎて役に立たない。

分かりにくいのは「絵」なのか「コマ展開」なのか「文法的な問題」なのか「ストーリー構成」なのか、あるいは…と、いくらでも該当するものが出てくるのはずだなのだ。


「具体的にどこが分かりにくい」のか、「なぜ分かりにくいのか」を指摘して、「どうしたら分かりやすくなるのか」をアドバイスして初めて添削といえる。

「未熟な作品」には「具合の悪い所」が山ほどあって、全てを具体的に指摘していったら大変な時間を必要とするし、指摘される方も混乱するばかりになる。

そこで、もっともポイントになる部分を指摘して添削する事になるが、「そんなことを聞きたいのではない」という場合もあるみたいで、なかなか難しい仕事だと思うことがある。




posted by かとう at 06:18| Comment(2) | myマンガ道

2016年09月02日

私の持ち込み体験


投稿を続け、賞に選ばれても一向に道が開けない時期でした。
持ち込みをしてみようと決意したのは26歳頃だったと思います。

投稿先はメジャー誌ばかりでしたが、持ち込み先はマイナー誌に絞りました。
(当時投稿していたメジャー誌というのは、少年マガジン、サンデー、キング(廃刊)、ジャンプ)

私が持ち込み先と決めたのは、読者をマンガマニアに絞った「マンガ少年」という月刊誌。
アポイントなしで直接編集部を訪ねました(今考えれば随分ムチャな行動です)。

銀座にあった朝日ソノラマという出版社。
受付で「マンガを見てもらいたいので、マンガ少年の編集長に会いたい」と伝えました。
追い込まれた人間は、平気でスゴイ事が出来てしまうのだなぁと思います。

初持ち込みの作品が預かりになり、数ヶ月後に雑誌初掲載となりました。

入稿が終わった暇な時期で、タイミング良く編集長がそこにいた。
編集長が部下任せにしないマンガ好きな人であった
…という運に恵まれた。

結局、人生で大切なものは「行動力と運」なのだと思うのです。


posted by かとう at 05:01| Comment(0) | myマンガ道

2016年06月19日

マンガに影響される



マンガが全てだった20代の頃の私は、ほとんどのマンガ雑誌に目を通し、ほとんどのマンガ家の先生がどんなマンガ(エロ漫画は範囲外)を描いているか把握していました。

だから、好きなマンガ家の先生の作品や異色で興味を引きつけられるマンガ家の先生の作品にはすぐに影響されていたのでした。
毎日のようにマンガに接していると、誰かの影響を受けて、出来上がる自分の作品はどこかしら誰かの「亜流」になっていたように思います。

元々自分は影響されやすい体質なので、仕方がないといえば仕方がないのです。
自分のオリジナルを描くには「マンガを 見ない事が必要だ」と理解出来たのですが、マンガが大好きだから、そんなことは無理な話だったわけです。

マンガを読まなくなったのは、結婚し子供が出来て、「マンガを描く事」をリタイヤした頃からです。
とにかくスパッと読まなくなったのです。

40歳の時(マンガを読まなくなって10年近く)に、マンガと永遠の決別をするつもりで記念に描いた作品が、コロコロで藤子賞佳作に選ばれました。
市販のマンガに影響されない、オリジナリティーを持った作品だったからかもしれません。

またマンガを描き出す事になってしまうのですが、以前と違って「マンガを読む」意欲はほとんど消えていました。

運よく連載を持たせてもらい、10年以上コロコロマンガ家として活動する事が出来たのですが、マンガを読む習慣は消えていました。
描く側になったという事情も影響しているかもしれません。

他の先生の作品に憧れ、影響されて、「こういうマンガが描きたい」という欲求が完全に消えました。
市販のヒット作に影響されない環境になったことで、「自分だけが描ける作品」に向き合うことが出来たのは、私にとっては幸いだったと思います。

ただ困ったのは、「人気が出ないと打ち切られる」ので、「コロコロで人気のある作品」を意識せざるを得ないという、別の影響が出て来ました。

影響されるというのは、私にとっては鬼門です。

posted by かとう at 17:10| Comment(0) | myマンガ道

2016年04月04日

マンガと共に楽しく生きる


マンガは楽しい(^ ^)。
小学校の時から「マンガにどっぷり」の人生を歩んできました。

最初は読むのが楽しくて面白くて、ひたすら「マンガを読む」のが生きがい。
中学生になってからは、自分でも「マンガを描く」のが生きがいになり、以降はひたすら「マンガを描く」ことに没頭してきました。

食べていかなくてはならないので、社会に出て仕事はしていましたが、何の為に生きているのかといったら「自分のマンガを描く」ためでした。

幸いなことにプロとして活動することが出来るようになり、仕事の中心は「マンガを描く」ことになりましたが、本当に楽しい毎日でした(苦労はいろいろありましたけど)。

セミリタイア状態の今は、「マンガ家としての作品を描く」事からは遠ざかっていますが、「マンガを教える立場」になり、「マンガを描いてもらう事の楽しみ」を覚え、相変わらず「マンガにどっぷり」の生活をさせていただいてます。

大ヒットを飛ばしたわけでもなく、アニメ化・映画化をされたこともなく、さして著名でもない無名のマンガ家ですが、それでも「マンガと共に楽しく生きる」生活は続いています。


posted by かとう at 05:27| Comment(0) | myマンガ道

2016年03月21日

マンガを描き続けてよかったこと


マンガが好きになり、自分でノートにマンガを描き始めたのが小学6年生の時。
それ以来、ずーっとマンガを描き続けている。

つらい事や悲しい事があっても、生きていく上での支えになっていた。
孤独を感じた事がない。
自分が劣っていると思った事がない。

自分で「世界」を作れる事の楽しさは、描く事が出来る人にしか理解してもらえない。
それを知っている自分は、なんて幸せ者なのだろうとずーっと感じて生きている。

仕事や私生活で失敗して落ち込んだ時も、自分にはマンガがある!と立ち直れた。
デビュー前もデビュー後も、常にそうだった。
落選したり打ち切りになったりしても、人は見る目がないから仕方がないと本気で思っていた。

バカなのかもしれない。
でも…それでいいのだo(^_^)o

「自分が描いているマンガが一番面白い!」と思うことも出来ず、マンガを描き続けられるものかって本気で思う私です。


posted by かとう at 04:32| Comment(0) | myマンガ道

2015年04月22日

昔の自分へメッセージ


届くものなら届けたい(⌒-⌒; )
今の自分から、昔の自分へメッセージ


連休の始まりでウキウキしている昔の自分へメッセージ

休みだからってノンビリしてんじゃね〜よ。
今描かないでいつ描くんだよ〜。


自分はマンガ家になれるのだろうか?…と考えていた20代の自分へメッセージ

そんなこと考えるより行動。
1ページでも多くマンガを描くことの方が大事。
描いていれば、気付かぬ内にマンガ家になってる。
そんなもんだから( ´ ▽ ` )ノ


会社勤めをしながら投稿マンガを描いていた、20代の自分へメッセージ

どんなに疲れて帰ってきても「せめて枠線の一本でも描こう」としていた行動は、決して無駄になっていないぞ*\(^o^)/*


彼女もできず、ひたすらマンガにのめり込んでいた高校時代の自分にメッセージ

彼女がいない寂しさは同情するけど、もし彼女がいたら「脳内が全てマンガで満たされている、妙に充実しているその時間」を経験することは出来なかったはず。
そのままドップリとハマり込み続けていいと思うよ(^O^☆♪


コロコロで初連載をゲットするも打ち切りを告げられ、「このまま消えてしまうのだろうか…」と怯えている中年デビューの自分へメッセージ

今描いているものに全力を注ぐ事だ。自分を信じて描き続けるしかないのだから。
道は自ずと開かれてくるものだよ(^_^)


投稿して賞に入ったので、すぐにデビュー出来ると思い込んでいた昔の自分にメッセージ

賞に入った後の活動が大事。
ジッと待っていても何も始まらない。
マメに担当に接触し、担当の信頼を勝ち取り、デビュー出来るような作品作りに励みなさい!


連載がなくなってマンガが描けなくなり、焦っていた時に依頼が舞い込んだ「ジャンルの違うマンガ」を、受けようかどうしようかと迷っていた「あの時の自分」にメッセージ

その仕事にはとんでもない担当がつくぞ。
精神的に大ダメージを負い身体を壊す事になるので、絶対にやめておけ!



posted by かとう at 06:27| Comment(0) | myマンガ道

2014年12月07日

マンガ家は「デビュー」よりも「続けること」の方が難しい


コロコロでの受賞と同時に、フリーデザイナーとして独立した私は仕事をもらえそうな知り合いに片っ端から連絡をいれ意欲的に小さな仕事・安い仕事、何でも引き受けました。

藤子賞授賞式後、(私に合わせたのでしょうか)年輩の担当さんが決まり、新作に向けて二人三脚が始まりました。
打ち合わせの最中、側を通りかかった当時の編集長がこんなことを言いました。
「おとうさんのマンガを描いたら?」
他の新人さんとの差別化を考えて、そういうアドバイスをされたのかもしれませんが、私には皮肉に聞こえたました。(だって、コロコロの読者が「お父さんのマンガ」なんか読みたがるか?)

過去の持ち込みや、デザイン時代のクライアントとの接し方の経験から、相手の要求を「飲む」ことから仕事は手に入るということを学んでいたので、自分の描きたいものはとりあえず脇に置き、まず「おとうさんにしか描けないおとうさんのマンガ」を描くしかないと思いました。

さて、「担当さんと打ち合わせながらマンガを製作する」という経験など皆無だった私は、その時に初めて「ネーム」というものを描きました。
マンガ少年に描いたマンガは、直接下描き仕上げしてましたから、ネームを描いてその段階で編集サイドから指示を受け、マンガを描くと言うのは不思議な感覚でした。
何度もネームを描き直し、やっとOKが出てペンを入れ原稿を完成するのに、7ヶ月かかりました。
もちろん、通常の自営デザイナーとして、営業をこなし製作をしながらです。
休日はほとんど取れず、朝も早くから夜遅くまで働きました。
家庭サービスなどほとんどできず、家族には寂しい思いをさせたと思いますが、働かないと食っていけないのだからしかたがない。

でも、正直に言って、この段階でもマンガ家になれるとは思っていませんでした。
編集部に出入りし、編集者とマンガについて打ち合わせをしているという活動は、「食べていく為の仕事」の合間の息抜きという感じでした。
少年時代から憧れていた「マンガ家っぽい生活」ができるだけで、もう幸せだったような気がします。

残念ながら、完成した原稿が本に載る事はありませんでした。
作品の出来が悪いのか、編集方針に合わない内容なのか・・・・。
理由は知る由もありません。
会うたびに「どうなりました?」と聞いても、「もう少し待って」と言われ、3度目に「もう少し待って」と言われた時には、もうあきらめました。

次は、自分の描きたいものを描こうと心に決め、「学園怪奇探偵団」といった趣向の作品で、新たにネームを起こしましたが、前回にも増して怒濤の描き直しの嵐。
それでも、必死に食い付いて、何度も描き直して持っていきましたが、「あれはヤメて、新しいものを考えませんか?」と言われた時は、さすがに落ち込みました
この数カ月は何だったのだ・・・・・。
その一言が、かなりのショックだったのでしょう、次の作品を描く意欲が消えてしまいました。
新しいものを描いても、すべてが無駄になるのではないかという疑心暗鬼に陥ったからです。
「やっぱり、簡単にマンガ家にはなれるものではないのだ・・・・」
そんなことをぼんやり考え、一月近く連絡を取る事も無く時間が過ぎていきましたが、このままでは釈然としないので、もう一作だけやって、だめなら手を引こうと考えました。

一週間程で新しい作品のネームを描き、ひさしぶりに編集部に電話を入れてみて驚きました。
なんと、私の担当さんは人事移動で、すでに編集部にはいなかったのです。

さて、担当さんが人事異動でいなくなったことを聞いて、私はあわてました。
事情を説明したところ、新たな担当氏をつけてくれ早速ネームを見てもらう事になりました。
また1から始まりです。
「ドラゴンmyフレンド」を元にした新たなストーリーを見てもらったのですが、反応は今一つでした。
具体的に、どこをどうするという話は出ず、児童マンガ全般の傾向みたいな話をされたように記憶をしています。
何度目かの打ち合わせの時、進行中の企画があり描き手を誰にしようか詮索中だけれど、興味があるか聞かれました。
その企画というのが「仮面ライダーSD」でした。


「是非やりたい!」
とは答えたものの、描かせてもらえる筈がないと思っていました。
「詳しいことは担当から」と新しい担当さんに引き継がれ、企画書を見せられ、現実にそのマンガを描く事に話はどんどん進行していきました。
まるで、キツネにつままれたような、不思議な感覚でした。

まず、年末の増刊号で読み切りを描き、新年早々から連載になるという話で、それを私が描くというのですから、信じられません。
増刊の読み切りの原稿を描いている時点でも、その事が信じられませんでした。
描いている原稿が、本当に本に掲載されるのかも不安でした。
「他の人にも描かせていて、そっちの方が良かったから、あなたのはボツです」などと言われるのではないか・・・
そんな後ろ向きな考えまで浮かんできました。
増刊号が発売され、掲載されたマンガを見て、やっと本当のことだったと実感が湧いてきました。
こうして、私はコロコロコミックでデビューをしたのですが、「仮面ライダーSD」の企画の話がなぜ私の所に回ってきたのか、その理由は分かりません。
間違い無く分かっていたのは、巡ってきたチャンスは決して無駄にしてはいけないという事。

毎日が必死でした。
仮面ライダーSDの連載が本当にはじまり、無事念願のマンガ家になる事ができました。
この後、十数年ほぼ途切れる事なく、読切り短編も含め様々なマンガを描かせてもらいました。
『疾風天国風のクロノア』の連載終了をもってコロコロコミック編集部とは疎遠になりましたが、今でも感謝の気持ちで一杯です。

マンガ家というのは、デビューすることよりもマンガ家で居続けることが大変に難しい職業です。
マンガの魅力に取りつかれ、憧れてマンガ家を目指す皆さんは多いと思いますが、それなりの覚悟を持っていただくことは必要だと思います。

posted by かとう at 13:55| Comment(0) | myマンガ道

2014年11月29日

再度マンガを描き始めた時の話



マンガ活動を停止し雇われデザイナーに専念した生活になり、やがて子供も生まれました。
サラリーマンとして堅実な生活で、私の一生は終えるものと思っていました。
それなりに幸せでした。

ところが、世の中とはうまくいかないもので、その後デザイン会社の経営不振により、その堅実な生活が危うくなってしまったのです。
今後の生き方を考えなくてはならない状況になりました。
私は間もなく40歳になろうとしていました。
「再就職先を探さなくてはならない・・・・・・・!」
40才を超えると就職先は極端に少なくなります。
そんな不安の中、私は封印していた「マンガ」を描きました。

「最後の望み」みたいなつもりだったのかもしれません。
あるいは、今までの夢だった「マンガ家になる事」を完璧にあきらめるためのケジメとしての「最期の投稿」であったのかもしれません。

賞に入るはずもないだろうとは思いつつ、やはりどこかで「ひょっとしたら」という思いはあったのでしょう。
その「ひょっとしたら」が現実になりました。
私のマンガが佳作受賞したのです。
過去に佳作受賞経験は何度もありますが、「担当氏がついて打ち合わせをする」という経験はなかったので、このチャンスに食いつきました。

こうして、私は再度マンガ家への道へ踏み出したわけです。

posted by かとう at 06:50| Comment(0) | myマンガ道

2014年11月22日

最初の挫折の話


マンガ家になりたいと志し、時間を惜しんで原稿を描いてもなかなか目的は達せられないものです。
「挫折」という言葉を辞書で引くと、「途中でくじけること」とあります。
私の場合は、ニュアンスが若干異なるのですが、結果としては挫折なのかもしれません。

「マンガ少年」に作品を掲載してもらって気をよくした私は、原稿を描き上げては編集長に持ち込みを続けていました。
今では一般的になっている「ネームの段階から担当者と打ち合わせをする」などというものではなく、私が勝手に完成させた原稿を持ち込んでその場で見てもらうのです。
(「次はネームで見せてください」と言われなかったし…、そもそも担当と言えるのだろうか?)

面白いといって引き取ってもらえることもあれば、突き返されることもありました。
引きとって貰った作品が必ず本に載るとも限りません。
それでも、せっせと作品を描いては持ち込んでいました。
(掲載までにかかる時間はまちまちでしたが、幸いにして、お渡しした原稿はすべて本に載せてもらえました。)

「マンガ少年」に持ち込みをしていた時期は、デザイン事務所の雇われグラフィックデザイナーとして働いていた時期で、朝から夜遅くまで月〜土曜日の間(週休2日というシステムはまだまだ先の話)、場合によっては休・祭日も出勤していました。

夜遅く家に戻ってから、わずかでも時間を作ってはマンガを描くという生活で、それを3年続けました。
マンガ家としての収入が、デザイナーの給料の倍稼げるようになったら、マンガ家生活に専念しようと目論んでいたのですが、一年に2〜3作程度しか本に載らないので、マンガの原稿料だけで生活するなんて、夢のまた夢。
マンガ家として一本立ちできるような状況ではありませんでした。

そろそろ身を固めろと、周りがうるさくなってくる年頃(27歳位だったと思います)になり、私自身も今後の人生を決めないとまずいなあという考えもありました。
当時付き合っていた彼女(今の奥さんですが)と一緒になり、家庭を持つことになったのですが、生活がガラリと変わりました。

独身ではないということは、今までのように自分勝手な生活ができないということであり、それは「マンガを描く時間」が好き勝手に取りにくくなったということです。

男として家庭を守る為には、まず「食べていける事」が優先。
マンガ家よりはずっと安定したサラリーマンデザイナーの仕事に、重点を置いていくことになります。
結果、必然的にマンガを描くことをあきらめざるを得ませんでした。
COMでデビューして約10年近く描いてきてちっとも売れる気配がなかったので、潮時かもしれないという気持ちもどこかにありました。

以上のような状況でマンガ家生活に挫折したのですが、何作かでも商業誌に作品が発表できたので、それほどの悲愴感はなく幸せだったという気持ちが強かったように記憶しています。

その後、デザインの仕事場でイラストを描く機会はたくさんありましたが、コマで割るマンガは一切描く事はありませんでした。
まさか、10年後に再びマンガを描く事になるとは、その時は夢にも思っていませんでした。


posted by かとう at 13:49| Comment(0) | myマンガ道

2014年11月14日

持ち込みの話


専門学校やマンガ教室の教え子が「持ち込みに行く」と聞くと、他人事ではなくドキドキします。
どんな評価をされるのだろうか、キツイことを言われて落ち込まないだろうか…。
子供じゃないので余計な心配は不要だと思うのですが、がんばっている子であればあるほど気になってしまうのです。

私が初めて持ち込みをしたのは27歳の時でした。
ずいぶん遅い持ち込みです。
それまではもっぱら投稿をしていました。
少年マガジン、少年サンデー、少年ジャンプ、少年キング(既に廃刊)、少年チャンピオン…と、当時出ているマンガ週刊誌の全ての漫画賞に応募経験があります。
チャンピオンを除いて、全ての週刊誌の漫画賞には「佳作入選」していたのですが、受賞以降が続かない。
投稿していてもラチがあかないと悟り、遅まきながら持ち込みを決意したのでした。

どこに持ち込みをしたのかというと、朝日ソノラマ「月刊マンガ少年」編集部 (朝日ソノラマは既になくなっています)。
「マンガ少年」は「COM」の流れを受け継いだようなマンガマニアの為のマンガ雑誌でしたので、持ち込むならここしかないと思っていました。
自分が描いているマンガは、一般商業誌には向いていないと薄々感づいていたからだろうと思います。

今と違って情報が少ない時代でしたから、「持ち込み」という売り込み手段がある事は知っていましたが、具体的にどうしたらいいのかよく分かりません。
雑誌の裏にある出版社の住所は分かっていたので、作品を持ってそこに行けばいいのだろうという程度の知識しかなく、電話を入れてアポイントをとるという発想さえもありませんでした。
今思うと「27歳にもなってバカじゃねーの」と思うのですが、事実だからしかたありません。
極度の人見知りなので、電話をするのが怖かったのかも。

とにかくある日思い立って、描いた原稿を抱えて銀座にあった朝日ソノラマに向かいました。
ビルを見つけた時、「このまま帰っちゃおうかな」と思うほど、弱気になっていたことを覚えています。
勇気を奮い立たせて編集部に向かいました。
受付でなんと言ったのか細かいことは覚えていないのですが、「編集長に会いたい。マンガを見て欲しい。」というような事を伝えたと思います。

今考えると「編集長指名」はずいぶん大胆な発言だと思うのですが、どうせ見てもらうなら編集長じゃないと意味がない!と思い込んでいたのです。

たまたま編集長がいて、時間が空いていたので原稿を見てもらえることになりました。
目の前で、自分の描いた原稿をマンガの編集者に見られる…という経験は初めてだったので、緊張したと思います。
「思います」と書いたのは、実は記憶がないのです。
あるひとコマの構図を「大胆だね、この構図!」とやたら褒められたことを覚えています。

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この一コマなのですが、私にはどこが大胆なのか分かりませんでした。

読み終えた後、いろいろ話をしてくれるのかと思ったら、「預からせてもらっていいですか」という一言で終了。
今まで投稿した作品は戻ってこないものだと思っていたので、持ち込みも同じなんだ…程度の感覚で、渡しました。

「持ち込みってこういうものなの?」と、あまりの呆気なさに、気が抜けた状態で帰路につきました。
TVドラマの「アオイホノオ」の「初めての持ち込みのシーン」にもありましたが、ホントに「それだけ?」なのです。
今は編集者がいろいろアドバイスや感想を話をしてくれるようですが、当時の持ち込みの対応って案外あんなもんだったのかも。

で、それからどうしたかというと、手元に原稿が何もなくなったので新たな原稿を描き始めました。
何か描いていないと不安でしたし、アイデンティティーが保てなかったからです。

「マンガ少年」は手塚先生の「火の鳥」や、石ノ森先生の「サイボーグ009」が連載されていたので、毎月購読していました。
持ち込みに行った翌々月だったと思うのですが、発売された本を開いてびっくりしました。
持ち込んだ私のマンガが掲載されていたからです。
「手塚先生が急病のため、今月の火の鳥は休載いたします」と書かれていたので、いわゆる代替え原稿として使われたのだと分かりました。
もちろん手塚先生は急病などではなく、原稿が間に合わなかっただけなのですが、おかげさまで「マンガ少年」デビューは成功したわけです。

今の時代では、「持ち込み作品で即デビュー」ということは多分あり得ない事だと思います。
あの時代、あの編集部だったからこそなのでしょう。

posted by かとう at 20:25| Comment(0) | myマンガ道

2014年11月09日

マンガとの出会い


 私とマンガとの出会いは、私が小学3年生の頃(昭和36〜7年位)だったと思います。
今程マンガは市民権を持っておらず、またPTAが殊更に騒ぎ立てる程嫌われてもおらず、なんの害にもならない「子供のおもちゃ」といった程度のもので、少年サンデーやマガジンなどのマンガ週刊誌が創刊されるのは、まだ先の事でした。

 親戚のおばさん(おじさん?記憶が曖昧)が、お土産にマンガ雑誌(月刊誌)を買ってきてくれたのです。
私は、生まれて初めてマンガと遭遇しました。
そして、そこに載っていた「ジャングルタロ」というマンガに、私は衝撃を受けました(他のマンガは一切記憶に残っていないので、いかに鮮烈だったかが分かります(^_^;))。
作者の名は「手塚治虫」。
テレビもまだ普及していない時代です。
世の中にこんな面白いモノが存在するのかと、目が点になったのを覚えています。
家が裕福ではなかったので、そのマンガ雑誌を継続して買ってもらうこともできず、そのマンガ雑誌を何度も何度も読み返していました。

 健康で病気ひとつしなかった私ですが、あるとき風邪をこじらせて数日学校を休んだことがありました。
母親が元気を出すようにとでも考えてくれたのでしょうか、一冊の単行本を買ってきてくれたのです。
手塚治虫の『西遊記』第3巻(鈴木出版)というハードカバーの本でした。
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マンガ雑誌と違い、全部が手塚治虫のマンガなのです(@o@)。
今ではマンガの単行本など珍しくもないでしょうが、当時は大変珍しいものでした。
突然3巻なのですが、前の話など分からなくても、その面白さは抜群で、私の宝物になり、今でも大切にしています(^_^)。

 小学校も高学年になると、「マンガを買っている」友達ができ、彼等から借りてマンガを見る機会が増えて来ました。 また、当時は「貸本屋」さんが全盛のころで、自分の小遣いでも、毎月発売される月刊誌を何冊も借りて読む事ができる状況になっていました。
毎日のように貸本屋さんに通い、マンガ漬けでした。
完璧にマンガにのめり込んでいました。

 マンガ家になろうと決めたのは、小学校6年生の時でした。
自分でマンガを描く楽しさを知ってしまったからです。
最初は、お気に入りのマンガの主人公の似顔絵を描く事から始まりました。
友達の家に集まって、みんなで描きっこをするのですが、どうもその中で私が一番上手に描けるらしいのです。
みんなもそれを認めていたようで、「上手いから、マンガ家になれるんじゃない?」などとおだてられます。
こどもですから、当人もなんとなく「そ、そうなのかなぁ・・・でへへ」などと、その気になっていました。
ほめられて嬉しくない人間などいません。
描くのも楽しいし、それをさらにほめられるのですから、その気にならない方がオカシイ。

 そのうちに、似顔絵ばかり描いていてもつまらなくなり、かといってオリジナルのマンガを描ける程の力も無く、何をしたかといえば、既成のお気に入りのキャラクターを使って自分流のマンガを描くようになりました。
今で言えば、同人誌で描かれている「パロディ」のようなものでしょう(こどもが描くものですからもちろん健全な内容ですが)。
「鉄腕アトム」と「おそ松くん」を描いた記憶があります。
そのうちに、どうしてもオリジナルを描きたくなり、自分なりのキャラクターを作り、ノートに鉛筆で描きはじめました。
楽しくて、楽しくて、本当に楽しくて、毎日が幸せでした。

 将来何になりたいか、という授業の中で、
「ボクはマンガ家になりたい!」
と宣言しました。
それを聞いた担任の男の先生は、ニッコリ笑って
「かとうくんならなれるでしょう。」
と答えてくれました。
本気でそう言ってくれたのかどうかは分かりません。
でも、その言葉は、私にとって一生忘れられない言葉になりました。


manga01.jpg
6年生の時ノートに描いたマンガ


posted by かとう at 17:11| Comment(2) | myマンガ道

2014年09月11日

「コロコロコミック」の頃の話/4


自分なりの判断で描いていたマンガ家志望者の頃と違って、マンガ編集者というプロにチェックを受けるというのは緊張を強いられるものでした。
自分の描きたいことが伝わらなかったり、納得してもらえなかったりするわけです。

デザインの仕事をしていた関係上、相手が何を求めているのか見極める能力は持っていましたので、見当違いな修正をして担当さんを困らせる事はなかったと思います。

私が心がけたことは、相手が要求している部分の修正に「プラスアルファ」をすることでした。
言われたことだけ直すのではなく、「さらにこうしたらもっと良くなる」を付け加えるということです。
単なる自己満足でしかないかもしれませんが、作品の主導権は常に自分サイドに置きたかったのだろうと思います。

コロコロコミックで担当が付いて、初めてネームを描くという経験をしたのですが、下描きをチェックされるというのも初めての経験でした。
なんでもチェックされるのだなぁ…と、プロでやっていくってこういうことなんだなぁ…と実感しました。

プロという事が更に実感出来るのは、描いたマンガが原稿料というお金に変わること。
ファンレターをもらうという、読者とのつながりが出来ること。

原稿を上げるのが一番早いのは常に私だったようです。
とにかくせっかちな性格なので、早く描き上げないと不安で仕方がないのです。
小中高と、夏休みの宿題は7月中に終わらせてしまうタイプでしたから、昔からの性分なのだと思います。

posted by かとう at 05:44| Comment(0) | myマンガ道

2014年09月10日

「コロコロコミック」の頃の話/3


連載を持てたことで、マンガ家になった実感を持ちました。
デザインの仕事はクライアントを絞って続けていましたから、マンガ家とデザイナーの兼業でとにかく忙しい。
1年間で休みと言えるのは正月くらいのものでした。

マンガ家になったものの、編集部に打ち合わせに出かけて帰って仕事の繰り返しで、コロコロのマンガ家の先生方とお会い出来る事ってなかったです。
ミーハー(死語か?)な私は、常にマンガ家の先生に会いたいなーと期待していました。
打ち合わせの少し離れた席で、マンガの打ち合わせをしている声が聞こえてくると、誰だろう?とワクワクしてました。

新年会とサイン会が、他の先生方とお会い出来る数少ない機会でした。

新年会にはたくさんの先生方が集まります。
新人マンガ家の先生方は私よりふた回りも若かったりしましたが、マンガ家同士に年齢の壁など全くなかったです。
ベテランの先生方と私は近い年齢なので、それはそれで話も合い、楽しい時間がもてました。

マンガ家の先生って、どこにでもいる「おじさん」や「お兄さん」なのですが、独特の匂いがあります。
マンガを描くもの同士にしか分からないものだと思うのですが、「仲間」だと感じとれるのが面白い。

コロコロに載っている作品から、どんな先生なのだろうとイロイロ想像します。
「ウソッ!」と思わず口に出てしまうようなギャップがあったりで、大変面白かった。

「生身の人間がマンガを描いている事」が実感できました。
あのマンガを描いた先生が、同じテーブルで酒飲んで飯食って喋ってる、というのはホントに不思議です。

今でも現役で活躍されている先生、活動の場を他に移された先生と様々ですが、皆さんがんばっていて頼もしいです。

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2014年09月09日

「コロコロコミック」の頃の話/2


私の初連載「仮面ライダーSD疾風伝説」は、編集部サイドで既に大雑把な世界観とテーマが企画されていました。
ビッグウォーと呼ばれる大戦があり荒廃してしまった地球が舞台。
「マーシャルライド」というバイクによる対戦ショーが人々の熱狂的な人気を集めており、そこに様々なライダー達が集まり(ライダー版7人の侍)、バイクの技を競い合う…という内容を予定していたようです。

そのコンセプトに沿って、増刊号の読み切りは「マーシャルライド」で戦うV3のストーリーになりました。
連載第一回目も「マーシャルライド」という競技をメインにストーリーが展開します。
しかし今一つ人気が出ません。
小学生の読者は免許が持てずバイクに乗れないのですから、バイク競技に熱狂のしようが無いのです。

担当さんとの話し合いで、「7人の侍」のコンセプトだけを残しガラッとストーリーを変えることにしました。
3話目のアマゾンが出てくる辺りからは、勝手に物語を作らせてもらっています。

「下描き」が出来ると石森プロにチェックを受けるのですが、私の作ったとんでもない「仮面ライダーストーリー」を寛容な心で受け止めていただけました。
「こんなライダーがあってもいいんじゃないの」とお許しが出たようです。
(当然この言葉は石ノ森先生の言葉だと解釈しています)

最終話では何人もライダーが死んでいくのですが、よく石森プロがOKを出してくれたものだと、今でも驚くと共に感謝しています。
最終話のアンケート結果はかなり良かったと、連載終了後に担当さんから聞きました。

ちなみに、一度だけ石森プロからチェックが入ったことがあります。
「V3の仮面のシワが、1本多く描かれてるので直してください」と。
このことで、毎回しっかりチェックされていることを確認できました(^◇^;)

連載第一回目のネーム(大事に取ってありました)
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2014年09月08日

「コロコロコミック」の頃の話/1


藤子賞の佳作入選は、デザインの仕事をフリーとして始めた頃でした。
食べるための活動がメインでしたので、「マンガ家になりたい」というより「マンガが金に変わらないものだろうか」という意識の方が強く、ネームを見てもらうのも「営業としての行動」の意味合いが強かったです。

担当者にネームを見てもらい修正部分を確認して描き直す作業は、デザインのプレゼンテーションによく似ています。
デザインの場合は何回かの修正を経てGOサインが出るのですが、コロコロの最初の私の担当者は「よく分からなくなっちゃったから、これやめましょうか」と終了宣言。

「えっ?ウソッ!……何度も直したあの時間は何だったの?」と驚いた事を記憶しています。

新たに始めたマンガのネームも何度も描き直し、やっとOKが出て仕上げても他の編集者に不評だからとボツになりました。
マンガ業界恐るべし。

こんなことを繰り返して約1年。
無駄な時間が流れて行くことに耐えられなくなり「もうやめようかな」と思った頃、突然「仮面ライダーSD」の連載の話が舞い込んできたわけです。
何が起きたのか、寝耳に水の大仰天です。
モチロン「やります!やります!やらせてください!!」と大はしゃぎでした。

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とりあえず年末の増刊号で読み切りを描くことになりました。
時間的にかなりキビシイ状況でしたが、クライアントさんに事情を説明し、デザインの仕事をお断りしたのを覚えています。

あきらめたら全てはそこで終わってしまう。
「タイミングってあるのだなぁ」というお話です。
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2014年08月27日

「COM」の頃の話/5


復刊号で「女の中の男一匹」のリメイク版が月例新人賞に選ばれた頃の話。
「一度お会い出来ませんか?」と連絡をもらって、虫プロ商事に行ったことがあります。
かなり記憶が曖昧になっているのですが、描いていたマンガを持参したように思います。
次回に載せてもらえることになり有頂天になった記憶が…。
「COM」は復刊号1冊で長い休眠に入るので、結局そのマンガは陽の目をみる事がなかったのですが(^◇^;)

手塚先生にお会い出来ることになり、練馬の仕事場に編集のTさんと向かうことになりました。
Tさん朝から頭痛がひどくて、薬を飲むからと薬局に立ち寄ってました。
行く道すがらTさんから聞いた話はちょっと衝撃でした。

「COM」に載せるマンガの原稿を、某先生(売れ始めた新人)の所に受け取りに行った時の事。
上がった原稿がかなり手抜きだったので、Tさんが「これではチョット…」と不満を漏らしたそうです。
するとその先生はキレて、原稿をTさんの目の前でビリビリと破いてしまったとか。
本に穴をあけるわけにはいかず、Tさんは破られた原稿を泣く泣くセロテープで貼って入稿したとのこと。
初対面の私にそんな話を愚痴るなんて、余程悔しかったのだろうな、と同情しました。

原稿を破り捨てる事が出来るというのは、本人にとっても破り捨ててもいいような「どうでもいい作品」だったのだろうと思います。
そんな作品描くなよ(; ̄O ̄)
ガキのようなくだらないパフォーマンスをするマンガ家の先生。
原稿が可哀想などという感情は皆無なのだろう。

当時の私は「クズ」だと思いました。
今でも「クズ」だと思っています。

posted by かとう at 05:43| Comment(0) | myマンガ道

2014年08月26日

「COM」の頃の話/4



コミケ(コミックマーケット)は今では大イベントとなっており、同人誌という存在がメジャーになっています。
ですが、「COM」の「ぐらこん」が元になって発展したということを知っている人は少ないかもしれません。

当時「ぐらこん」は日本全国で組織として支部を作り、同人誌活動を盛り上げました。
私自身も影響されて同人誌を作ろうと思った位でしたから、当時のマンガ家志望者達にはかなりの影響力があったはずです。

一度見に行ったことがあるのですが、当初のコミックマーケットは参加人数もすくなく、ごく細々としたイベントだったと記憶しています。
まさか世界的にも有名なイベントになるなど、想像すら出来ませんでした。

「COM」というマンガ専門誌は、マンガの表現に関して斬新な描写をプロの先生方が競っていました。
刺激的なものや失敗作含めて、当時のマンガ愛好者を刺激していたと思います。
商業誌では絶対に見られないようなマンガがバンバン載っていたのです。
「こういう表現の面白さ」「こんな視点での面白さ」がマンガにはあるのかと発見することが多かったです。
私は「マンガが持つ奥深さ」を「COM」から学びました。
「面白ければ、マンガはどんな描き方をしてもイイのだ!」
「商業誌に載らないようなマンガでも、面白いものは誰がなんと言おうと面白いのだ!」

「COM」という雑誌は無くなっても、「ぐらこん」は「コミケ」に生まれ変わって存在している事が感慨深いです。

posted by かとう at 04:49| Comment(0) | myマンガ道

2014年08月25日

「COM」の頃の話/3


毎月「ぐらこん」にはたくさんのマンガ家志望者から作品が送られてきます。
どの作品も 「COM」らしい作品でした。
掲載される入賞作も「COM」でしか載せてもらえないような、独特の面白さを持ったマンガです。
しかし「なんでこの作品が⁇」というものが一度載ったことがありました。

その謎は40年を経て出版された「COM」終刊号の当時を振り返る記事を読んで分かりました。

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「ぐらこん」に入賞作が出ない時期が続いた時、「ソロソロ出さないと如何なものか」と編集部では悩んだそうです。
で、投稿された作品から選ぶのではなく、当時の某先生のアシスタントでメッチャ絵が上手い人の作品を入賞させたとか。
いわゆる「大人の事情」というやつだと思います。

その入選作に関しては「COM」的な要素が感じられず、面白さが私には全く分からなかったのです。
絵のレベルは当時のプロも顔負けの上手さでしたので、そういう視点でなら選ばれても特に問題は無いのです。
しかし、私には「絵が上手いだけのマンガ」は「違和感」がありまくりでした。
「マンガとしての面白さこそが重要」という考え方だったので、当時はなんとなく納得出来ない思いだったのです。

でも、そういう人は編集者に認められるなにかを持っていたわけであり、選ばれるという強運も持っていたわけです。
それもまたマンガ家としての「才能」なのだと今は理解できます。


posted by かとう at 05:30| Comment(0) | myマンガ道

2014年08月24日

「COM」の頃の話/2


私が「ぐらこん」に投稿を始めたのが1970年11月号。
1971年12月号で「COM」は休刊になります。
この約1年間、ひたすらマンガを「描いては送り」を繰り返していました。
自分の年齢を確認したら19歳でした。
専門学校の学生と年齢が被ります。
当時はまだマンガの専門学校など存在しない時代でしたから、自分の作品がどの程度のレベルなのかを確認出来、講評してもらえるのはとても貴重な経験でした。

残してあるメモを見ると、6作品描いてました。

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この頃になると、一般マンガ雑誌が新人募集の「○○賞」を設置し始め、「しめた!」とばかりにそちらにも投稿を始めています。
この時期は大学受験に失敗し1年間浪人生活の末の大学生でしたので、マンガを描くための時間は比較的ありました。
自分の生き方をソロソロ真剣に考えはじめ、自分の意思でその方向に進むことが可能な大切な時期なのだろうと思います。
この時期の行動が、結果的に将来に結びついているように感じられるのは、自分の行動を振り返ると納得出来たりします。

「女の中の男一匹」のリメイク版が評価されて復刊号に入選作として選ばれ、新作を持ち込んで次回掲載してもらえるはずだったのですが、残念ながら復刊された「COM」はわずか1冊で再び長い休刊となりました。
あのまま「COM」が続いていたら私のマンガ人生は多少変わっていたように思います。

posted by かとう at 05:23| Comment(0) | myマンガ道

2014年08月23日

「COM」の頃の話/1


マンガ専門誌「COM」の創刊号の発行日は、「1967年1月1日」となっています。
私がたしか高校2年の頃です。

私がマンガにのめり込んだのは小学生の時です。
当時は月刊誌が全盛で、私は「少年」という光文社のマンガ月刊誌に大ファンでした。
「鉄腕アトム」「鉄人28号」に夢中になって、自分もこんなマンガを描ける漫画家になりたいと思ったのが小学6年の時でした。
でも、それは単なる「子供のあこがれ」レベルだったと思います。

中学・高校になっても「漫画家になりたい」とは漠然と思っていましたが、やはりどこかで「あこがれ」でしかなく本気ではなかったように思います。
そんな私の目の前に現れたのが「COM」でした。
載っているマンガが魅力的だったのはもちろんですが、衝撃を受けたのが「ぐらこん」という企画コーナーでした。

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なんと!!「素人のマンガ」が編集部の講評付きで掲載されていたのです。
今でこそ「○○賞」と各出版社がマンガ家志望者に門戸を開いていますが、当時の一般マンガ雑誌には「投稿して評価を受ける」などというシステムは無かったと記憶しています。

遠かった世界が自分が立っている世界と地続きで、案外すぐ近くにあるということが見えた瞬間、「マンガ家になる」は「憧れ」ではなく「目標」に変わりました。

「COM」への投稿は創刊されてから随分経ってからです。
それまでちゃんとしたマンガを描いたことがなく(いつも途中で放り投げていた^_^;)、とにかくちゃんとマンガを描き上げようと四苦八苦していた2年間でした。
初投稿が「殺しのプロフェショナル」という15ページのギャグマンガ。
ページ数が中途半端なのは、「描いたら15ページで終わった」という事で、「何ページでまとめる」などという発想さえ無い素人だった事が分かります。

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自分の描いたマンガが本に(一部でも)載ったという事で、「マンガ家になりたい」という目標に一歩前進した思いで喜びまくったのを覚えています。


posted by かとう at 07:43| Comment(0) | myマンガ道

2014年06月16日

「誰も描いたことがないマンガ」を描きたい!


マンガ家になった以上「誰も描いたことのないマンガを描きたい!」と意気込んではみるものの、これだけマンガが氾濫していると「誰も描いたことがないマンガ」を描くのはなかなか難しいです。
私が描いてきたマンガの数々も、誰かが描いてきたジャンルからは一歩も飛び出していません。

そんな私のマンガですが、「私が最初の描き手かな〜」と自負しているのが下記の2作。

1作は、「COM」のデビュー作「女の中の男一匹」。
「男として育ってきたが実は女だった→男が女になる」というストレートな発想のマンガはそれ以前にはありませんでした。
手塚先生の「リボンの騎士」の逆バージョンととらえられなくもありませんが、「男が女になる (というか女に戻る?)」という発想は未だマンガ界では出ていなかったと思います。
「リボンの騎士」はあくまで「装う」だけなのに比べ、「女の中の男一匹」は「装う」のではなく「そのものになる」ので、かなり斬新だった筈です。
そんなわけで、アイデアを認められて「COM」で佳作入選。

もう1作が、専門学校で配布していたプリントマンガ「マンガのマンガ」です。
コマ構成やコマ展開に関しての基本的な解説を、マンガとして描いたのは「マンガのマンガ」が初めての筈です。

この2作に共通する事があります。
アイデアを思いついた時、「これ面白い!」と確信し「絶対描かなくちゃ!」と興奮したこと。
「売れる売れない」や「評価を受けるか受けないか」に関わらず、「誰も描いたことがないマンガ」を「思いつく喜び」はハンパないです。

posted by かとう at 19:48| Comment(2) | myマンガ道

2014年02月03日

こういうマンガを描いて、29年目にマンガ家になりました

小学生の頃にマンガが好きになり、自分でマンガを描き始めました。
大きくなったら「マンガ家になりたい」とクラスで宣言し、先生に「加藤君ならなれるでしょう!」とお墨付きを貰ったのを覚えています。

▼小学6年生の時にノートに描いたオリジナルマンガ

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▼中学生の時にノートに描いたオリジナルマンガ

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▼高校に入ってペンで描いたオリジナルマンガ

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▼高校〜大学時代、COMに投稿したオリジナルマンガ

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▼会社員時代に描いていたオリジナルマンガ

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▼コロコロコミックデビュー以降のマンガ

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コロコロコミックで連載を持ち、マンガ家と名乗れるようになったのが41歳です。
12歳で「マンガになりたい!」と宣言して、29年かかりました。
途中挫折して諦めたこともありましたが、やはり「好き」だからこそ続いたのだと思います。
継続する事は「力を付けていく」ことだし、「進むべき所に到達する」方法なのだろうなぁと感じます。
絵柄って、何年たってもほとんど変わらないんだナって事も同時に感じました。


小学校の同窓会があり、数十年ぶりに担任の先生にお会いして、「加藤君ならマンガ家になれるよ」と言っていただいた事を今だに覚えていますとお話ししたら、先生は完璧に忘れてました(ま、当然ですが)。

先生の何気ない一言でも、生徒は一生忘れないのだということを実感しました。
専門学校で講師として教えていますが、今後は「言った言葉には責任を持たないとイカンな……」と心に言い聞かせました(^◇^;)


posted by かとう at 13:58| Comment(0) | myマンガ道

2009年02月20日

侍っ子

「関谷ひさし」というマンガ家の先生を、今の若い人は知らないと思います。
私が子供の頃(まだマンガが月刊誌が主流だった頃です)「ストップ!にいちゃん」というマンガで、世間のマンガファンを熱狂させたマンガ家さんです。

昨年80歳で亡くなられたそうですが、間際に完成させたマンガが出版されました。
それが「侍っ子」というマンガ。
70歳から約10年もかけて、コツコツを描き続けたマンガなのですが、その絵の描き込みやイキイキした線の凄さにびっくりしました。
200ページを超える長編ですが、表現の古臭さは多少あるけれどそれはそれでいい味になっています。
そして、正直いって面白かったです。
今では失われてしまった、そして児童マンガには絶対に必要な「暖かさ」を感じ取れました。
単なる懐古に浸っているのではなく、逆に新鮮ささえ感じました。

マンガ家は歳を取ってくると絵が枯れてきます。
余分なものをはぎ落とし、「味のある一本の線」みたいなもので絵を描きます。
自分も若い頃と違って、今はシャープな線を引くのに苦労します。
かなり線もヘロヘロになりつつあります。
そろそろもうそういう歳なのかなぁ・・・ヤバイなぁ・・・と思っていた矢先のことだっただけに、とてもイイ意味でショックでした。
大切なのはマンガを愛し描き続けることなんですね。


80歳になっても「これだけの絵と線が描けるのだ」という証明を提示してもらい、改めてやる気が起こってきました。
私は57になりますが、80歳に比べたらまだまだ幼い小学生みたいなもの。

ちなみに、本として出版するという目的で描いていたわけではなく、描きたいから描いていたということのようです。
本当にマンガが好きだったんだろうな・・・と涙が出る程感動しました。



posted by かとう at 06:04| Comment(2) | myマンガ道

2008年12月08日

「週刊現代」連載終了

本日発売の「週刊現代」にて『こちら週刊現代突撃班』の連載が終了になりました。

週刊誌に掲載された私のマンガを「見る」最後のチャンスなので、今まで見たことが無い方はぜひご覧になってください(立ち読みでも可)。

今年の3月頃から原稿を描き始め、今までの「児童マンガ」というジャンルとは180度も方向が違うマンガに四苦八苦してきましたが、大変勉強にもなりました。

一番の成果は似顔を描くことが上手くなったこと。
似顔というのは苦手だったのですが、必要に迫られてとにかく数をこなしていくとコツが分かってきて描けるようになりました。

繰り返し、繰り返しやる。
上達の秘訣はこれなのだと、改めて実感した次第です。

今後のマンガの仕事に関しては全く白紙。
来年は講師の仕事がメインになるのかな・・・・とは思っていますが、もちろんマンガも描いていきます。
商業誌に載るのがベストですが、こればかりはこちらの都合通りにはいかないので、自分のペースでまず作品を描いていこうと思っています。
今はネットで発表できるので、収入のことを無視すれば活動はいくらでも出来る時代です。
(マンガが売れて、それで生活できればいちばんありがたいのですが)。

なにはともあれ、これで一区切り。

ひと休みして、また頑張ります!
posted by かとう at 08:56| Comment(2) | myマンガ道

2008年10月11日

「女の中の男一匹」の思い出

ここ2週間程、HPにアップしている「女の中の男一匹」にアクセスが3万人以上ありました。
リンクを辿っていくと、「 最近のweb漫画面白いの多いな 」というスレッドの中にアドレスが貼ってありました。

20歳の時に描いたマンガですから、37年前の作品です。
「COM」への3度目の投稿作品でした。
当時は昼はテキスタイルのデザイン事務所でバイトをし、夜はデザインの勉強を大学でしていました。
バイトと勉強の合間にマンガを描いては投稿していたわけです。

「COM」を発行していたのは虫プロ商事という手塚先生が社長をしている出版社でした。
編集の人が「一度会いたい」というので、池袋にあった編集部に行ったことがあります。
たいした話も無かった記憶していますが、「今日、時間あるかな?」と聞かれたので、夜は学校があったのですが、午後は特に用事がないので「ありますけど・・」と返事をしました。
「手塚先生の所、人手が足りないので手伝ってほしいんだけど・・」とのこと。

「て、手塚治虫に会える・・・・・」そう思った私は、天にも昇るような気持ちでした。

手塚先生の仕事場は練馬の富士見台という所にありました。
編集の人が、「女の中の男一匹」を描いた新人さんだと手塚先生に紹介してくれた時、「ああ、あれネ。とっても面白かったよ」と言ってもらえたのには感動しました。

紹介もそこそこに、早速手伝いを始めました。
お手伝いしたのは、当時「少年サンデー」で連載していた「サンダーマスク」でした。
背景の斜線を引いたり、背景の一部を描いたり・・・。

手伝いを始めたのが午後の1時頃からでしたが、4時を過ぎた頃になると苦痛になってきました。
憧れの手塚先生の手伝いをしているのだから心はウキウキで光栄な筈なのに、ちっとも面白くないのです。

このまま徹夜でずーっと手伝いをすることになるのかと考えたら、急にその場にいるのがイヤになってきました。
自分のマンガを描くのは楽しいのですが、いくら偉大な先生の手伝いでも他人のマンガを描くのは自分にとって時間の無駄にしか思えなかったのです。

「実は、夜、学校があるので・・・」と口実をつけ早々に逃げ出しました。
もちろん、うそをついたわけではなく実際に授業があったのですが、場合によったら休んでもいいかと思っていたわけです。

わずか4時間ほどのアシスタント体験でしたが、もうアシスタントはコリゴリでした。
逃げるようにその場を去ったので、もちろんアシスタント代はいただいていません。

今では懐かしい思い出です。
posted by かとう at 09:48| Comment(4) | myマンガ道

2007年12月11日

現在

人生には「転機」というものがあるようです。
まさに「ハジマリはいつもトツゼン・・・」です。

サラリーマンデザイナーから(そのデザイン会社の経営不振により)フリーの立場にならざるを得なかった時がそうでした。

フリーになってからもマンガだけで食べていく自信がなくデザインの仕事との兼業でした。
収入のメインはデザインの仕事による部分が大きかったため、堂々と「私はマンガ家です」とは言えませんでした。

3年ほど前から専門学校の講師をしていますが、諸事情によりデザインの仕事が少なくなってきていたこともあって、最近はマンガに関わる仕事に比重が多くかかってきています。

そんな中、久々に「マンガの連載」の話が進行中で、これが正式に動き出すと不定期に入ってくるデザインの仕事に対応できなくなってしまいます。
デザインの仕事はギャラがよいので後ろ髪を引かれる思いでしたが、休業させてもらうことにしました。
これは、久々に訪れた大きな転機だと感じています。

いよいよ、「マンガに関する仕事だけ」に専念する生活に切り替わります。
というわけで、どういう結果が待っているのか分かりませんが、私は堂々と「マンガ家です」と胸をはって言えることになりました手(チョキ)

posted by かとう at 05:11| Comment(2) | myマンガ道

2007年09月19日

コロコロの想い出/その6

■仮面ライダーアギト→風のクロノア

 諸事情によりチョコボが終了してしまい、今後の私はどうなってしまうのか・・・・
頭を抱えていた時に、コロコロから「てれびくん」に移られたSさん(サイファ−を面白いといってくださった編集さんでした)が声をかけてくださいました。
「仮面ライダー・アギト」のマンガを毎月8〜9ページ位という依頼でした。
ありがたくお引き受けしました。
読者が低年齢だしページ数にも限りがあるので、複雑なストーリーのマンガは展開できません。
担当氏と打ち合わせの末、「ウルトラファイト」形式にしようということになりました。

「ウルトラファイト」といっても若い皆さんはご存知ないでしょうが、ウルトラマンがテレビで初めて放映され大人気を博した際に後追いで製作された5分ほどの番組です。
内容は単純極まりなく「ウルトラマン」に登場した怪獣同志が闘うだけの映像で、特撮でもなんでもなく、着グルミをきた2体がプロレスごっこをしているだけなのですが、子供達には人気がありました。
マンガでそれをリアルに描こうという意図だったのです。
TV放映のシナリオを元に、どんな怪人を出して、どういう必殺技をだして・・・と、それなりに楽しみながら描かせていただきました。

でも、このページ数では毎月の収入面で不安があります。
デザインの仕事もしていたので、ギリギリ生活はなんとかなりそうでしたが、収入減は頭の痛い問題でした。

 年も押し詰まった年末でした。
コロコロの担当氏から連絡があり、「クロノアの企画があって、かとうさんを推したらOKが出たのですが、どうします?」とのこと。
もちろん「ぜひやらしてください。」と答えました。
「頼りになる担当さん、ありがとう!』と心の中で思わず手を合わせました。

さて、クロノアの新連載。
描き様によっては、チョコボ以上に当たるかもしれませんよと、他の編者さんに言われ、意欲は満々になっていました。
チョコボの後だったので、あの路線でいけばいいのかと思っていたのですが、「ギャグマンガで」との意向。
「ギャ、ギャグですか・・・・」(当惑)

当時のコロコロはギャグ路線だったので、ほのぼの系では他のマンガに太刀打ちできないとの考えだったのかと推測しています。
ギャグマンガはアマチュア時代はよく描いていましたが、プロとして描くのは初めてだったので戸惑いました。
クロノアのギャグは、「コントギャグ」を意識しています。
ゲームのクロノアに登場するキャラクター達にそれぞれの役(ゲーム世界とは無関係に)を演じてもらい、大掛かりなコントを展開するという毛色の変わったギャグマンガを狙っていました。
年代のギャップ・感性など不安材料はたくさんあって、果たして受けたのか受けなかったのかは分かりません。
ただ、初めてマンガに接する子には受けた筈だと密かに確信しています。
出て来るギャグはどちらかと言うと既に出尽くしたギャグではあるけれど、ギャグの定番でもあり基本としてのギャグ入門としてその面白さは出せたと思っています。
残念ながら期待程の人気を取る事ができず、単行本2册分で終了になりました(ということは、やはり受けなかったということなのかなぁ(^_^;)。

クロノア連載中に担当氏が若い新人さんに替わりました。
マンガ編集の経験はほとんどないという人で、 しかも私との年の差はおそらく20歳以上。
私もやりづらかったが、相手はもっとやりづらかったろうと思います。

クロノアの終了後の事を考え、新企画を何本も出したのですが残念ながらその企画が通る事はありませんでした。
そしてクロノア終了から約1年後、これ以上の進展は望めそうに無いと悟り、担当氏に連絡を入れるのをやめました。
それ以後、コロコロ編集部とは疎遠になっています。

 デビュー以来10年近く、ほとんど途切れる事なく連載をさせてもらい感謝です。
これからもコロコロコミックが、子供達に夢と楽しさを与え続けるマンガ雑誌であってほしいと心から願っています。



posted by かとう at 15:30| Comment(2) | myマンガ道

2007年09月17日

コロコロの想い出/その5

■ZQ→川口能活物語→チョコボ

 オリジナルの「サイファー」「駆けろ!大空」で人気が取れず、打つ手はすべて出し尽くしてしまいました。
さすがの担当氏も「もうフォロー出来ない」とでもいう雰囲気を漂わせていたように私には思えました。
今までの私の絵柄と内容では、何を描いてもおそらく編集部には受け入れてもらえないだろうということです。
その当時は「ポケモン」の人気が絶好調の時でした。
「可愛い絵は描けるか」ということを聞かれ、描けると答えました。
デザインの仕事で、マンガとは違うテイストの可愛い系のイラストは描いていたので、それには自信がありました。
「人間の出ない、可愛いモンスターだけのマンガを読み切りでやってみましょう」と
言われたのです。 「二匹目のどじょう」を狙うようで、姑息といえば姑息ですが、私にとっては願ってもないことでした。
私なりのファンタジーを描く自信はあったからです。
ただ、一人も人間が出ないのは、さすがにドラマが作りづらいと感じたので、主人公だけは人間にさせてほしいとお願いしました。

32ページの読み切りですが、何度も何度もネームの直しが入りました。
100ページ前後は描いたと思います。
絵柄をガラッと変え、ペンタッチも変え、絵本風な味付けで描きました。
それが 「ZQ」という短編です。
この読み切りの評判が良ければ、次の仕事に繋がります。
願う気持ちで結果を待ちましたが、連載になる程の人気は出ませんでした。

 この年はサッカーのフランスでのワールドカップの年でした。
川口・中田両選手の企画マンガをコロコロでやるというので、私にも声がかかりました。
実在の選手を主人公にしたマンガで、しかもサッカー。
野球音痴だったことは前にも書きましたが、サッカー音痴でもありました。
(プロレス・格闘技なら誰よりも負けないファンだったのですが(^_^;))
かなり迷いましたが、断ったら後が無い弱小自営業。
やってやれない事は無いと思い、引き受けました。
三回の短期連載という事でしたが、中田選手の話は諸事情により中止となり、川口選手の話を2回だけ描かせてもらいました。
サッカーの勉強をし、サッカーのことを知るいい機会になりましたし、その年のワールドカップはテレビにかじりついて応援してました。

 さて、サッカーのマンガが終了し、どうしたものかと途方に暮れていると、担当氏から「いい話があるんです」と声をかけられました。
「チョコボのマンガをコロコロでやることになったのですが、かとうさん描いてみませんか?」というのです。
「『ZQ』の絵柄で私にやらせてみたら」と、担当さんが編集会議で推薦してくれたようでした。
もちろん、私に異存ははありません。
担当氏にはヒットの自信があるようでした。
「私というマンガ家がチョコボを描くから」ではなく、「チョコボのマンガだから」ということだと思いますが、「これは、いきますよ(人気が取れますよ)!」と私に告げてくれました。

新連載に伴って、「チョコボのマンガがコロコロで始まる」ということで、産経新聞の取材まで受けましたし、第一回ではカラー3ページという豪華版でした。
なんとなく、ヒットが約束されているような雰囲気を私自身も感じましたが、とにかく精一杯描きました。
第1回が本誌に掲載され、その結果が果たしてどうなるのか生きた心地がしませんでした。
あれだけ期待をかけられて、全く人気がなかったら、私の立場はありません。
おかげさまで、人気は上位にランクされ回を追う毎に上に昇っていきました。

「チョコボ」というキャラクターのおかげで、常に上位のランクをキープし、別冊にも番外編を描かせてもらうという経験もしました。
ファンレターも、今までより7〜8倍の量をいただき、単行本が5册を超えた時には、やっと「3巻王」を脱出できたのだという安堵感がありました。
印税のありがたさを実感できたのも、チョコボのおかげでしたし、いろいろな企画(チョコボの時計とか読者へのプレゼントなどにサインを入れるとか、サイン会とか)に参加でき、ちょっといい気分に浸れたのもありがたいことでした。

チョコボの3話を描いている最中に、長い間お世話になった担当氏が、ついに人事異動で部署が変わる事になりました。
思えば、6年近くずーっと担当についていただいていました。
人の出入りの激しいコロコロの編集部においては、珍しいくらい長いおつき合いでした。

「チョコボのふしぎものがたり」は約2年半続きました。
後半は、連載当初程の人気はなくなりましたが、それでもある程度上位の位置はキープしていたようです。
これまで私の連載作品が終了した理由は、アンケートの人気がないからでしたが、「チョコボ」に関しては異なりました。
版権元のスクウェアサイドと編集部との諸事情によるようです。
チョコボのマンガで10巻以上出せたらいいなあと心密かに望んでいただけに連載終了は違った意味でショックでしたが、売れっ子マンガ家の気分を味わう事ができてとても貴重な体験でした。


posted by かとう at 15:05| Comment(0) | myマンガ道